音素(Phoneme)とは?(1)入門編

最初に音素(Phoneme)についての導入をしておこうと思います。

 

 音素というのは厳密な定義が難しい概念ですが、ここでは「言語の音のうち、意味の区別に使うことができる最小の単位」とでも定義しておきます。厳密な議論は専門家がやればいいということにしておきましょう。

 音素は/a/のようにスラッシュで囲みます。/a/なら音素としてのaという音を表します。逆に発音は[a]と大括弧で、文字は<a>とブラケットで書きます。

 

 例えば、日本語の/a/の場合を考えてみましょう。

 日本語には[ka]と発音する単語がありますね?あのうるさいアイツです。(関東の日本語を念頭においています)この単語に含まれる[a]の音を、[i]に変えてみるとどうでしょう。[ki]となりますね。[ki]と発音する単語は(少なくとも関東の)日本語に存在していて、[ka]とは違う意味です。

 つまり、[a]を[i]に変えることで意味が変わります。こういう操作で意味が変わってしまう音を互いに別の音素であると判定できます。/a/と/i/は別の音素であるということになりますね。同様の操作で/u/、/e/、/o/や/k/、/s/などが音素と認定できます。また、例に出したkaやkiのような、一つの音を変えることで意味が変わってしまいうる語のペアのことを最小対語(Minimal pair)と言います。ちなみに、[ka]や[ki]がそれ自体でそのまま音素にならないのは何故か、という疑問が出るかもしれませんが、ここで「最小の単位」と定義したことが効いてきます。[ka]は/k/と/a/に分割できるので音素と認定できません。

 

 逆に、最小対語になってくれない音同士のペアもあります。

 今度は[ka]の[a]を[ʌ]に変えてみましょう。[kʌ]と[ka]は何か別の単語になっているでしょうか。少なくとも私の知っている日本語の変種では両者は同じ語に聞こえます。[kɐ]と発音した場合も同様です(私の発音はこの[kɐ]に近い感じがします)。それぞれの発音記号が具体的にどんな音なのかは機会があれば解説します。この[a]、[ʌ]、[ɐ]の三者は(少なくとも関東の)日本語の範囲では意味の違いに関わらないため、同一音素/a/に属する異音(Allophone)と言います。

 さらに、異音にも二種類あって、ここであげた/a/の異音は自由異音(Free allophoneまたはFree-variant allophone)と言い、周りの音次第で発音が確定し、基本的に自由に変更されない(無理やりやれば変更できますけど自然な発話では基本的に発音が一定になる)ものを条件異音(Positional allophone)と言います。例えば日本語の音素/s/は、基本的には[s]と実現しますが、/i/の直前では[ɕ]と実現します。この[s]と[ɕ]は音素/s/の条件異音であると言えます。日本語には既に/ɕ/という音素(「医者」/iɕa/とか)がありますが、それは問題ではなく、この[ɕ]の背後に/s/という音素があることと、/si/という音素の連続から[si]という発音が出てこないという点が重要です。/s/から[ɕ]が出てくることは、例えば「する」の連用形が「し」になることなどからわかります。

 また、この条件異音をなす子音は、出現する範囲がお互いに補い合っています。例えば日本語/s/の場合、/i/の直前では[ɕ]、それ以外の場合では[s]となります。従って、この[s]と[ɕ]の両者は、音素/s/が出現しうる範囲の全体をカバーできていて、さらに両者が出現する範囲に被りがないことがわかります(あくまで音素/s/から出てくる[s]と[ɕ]だけを対象とする場合の話です)。このような分布の仕方を相補分布(Complementary distribution)と言います。なお、条件異音の関係にあれば必ず相補分布しますが、相補分布するから異音であるとは言えません。これを許してしまうと英語の[h]と[ŋ]が同一音素になってしまいます(借用語を考慮しなければ、前者は語頭だけ、後者は語頭以外にしか現れませんね)。同一音素の異音として認定するためにはやっぱりある程度似た音である必要があるわけです(本当はもっと突っ込んだ議論が必要なんでしょうが)。

 

 次に、日本語の「ん」について考えてみましょう。

 例えば、「千年」[sennen]、「千回」[seŋkai]、「千倍」[sembai]という三つの語を考えてみます(千年の末尾に関しては実際には[ɴ]と発音する人が多いと思いますし、日本語の/e/が[e]でない発音、例えば[ɛ]になることもよくあると思いますが、ここでは捨象します)。この三つの単語の前半部分はどれも「千」ですね(この三つの「千」が同じものである、ということを保証する「形態素」の定義は、もし形態論を書く機会があったらやります)。しかし、よくよく注意して観察してみるとこの三つの「千」は全て違う発音であることがわかります。同じ「千」なのに、なぜそれぞれの「ん」は別の発音になってしまうのでしょうか。

 まず最初に、この「ん」が/m/や/n/の異音である可能性から検討してみます。例えば「千円」という単語で考えてみましょう。この単語は[seẽen]みたいな感じで発音されるので、「ん」は鼻母音[ẽ]として実現していますね(多少位置がずれる可能性はありますが、基本的に鼻母音なのは間違いないと思います、また音節核でないので本当はそのことを示す記号もいれるべきですが省略します)。一方、/senaka/という単語では(背+中なので、途中のnは音素/n/に属すことがわかります)、発音は[senaka]となって、鼻母音ではなく[n]として実現します。これからわかるのは、音素/n/は二つの母音(ここではeとa)に挟まれた場合でも鼻母音にはならないということです。つまり、直後に母音がある場合に鼻母音として実現する「千」の「ん」は音素/n/とは違った振る舞い方をします。このことから、「千」の「ん」は/n/とは別の音素であると考えなければならないということがわかります。同様にして/m/の異音でないこともわかります。

 

 以上のことから、日本語の「ん」は/n/でも/m/でもない第三の音素だということがわかります。しかし、この「ん」に対応する音素はどう記述すれば良いでしょうか。「ん」はどの位置でも鼻音として実現しますが、上で色々みてきたように、どのような鼻音になるかは次の音次第でかなり変わりますね。こういう音素を定義する際には、原音素(Archiphoneme)という概念を使います。この原音素は大文字で表されます。日本語の「ん」の場合は/N/となります(スモールキャピタルのɴとは別物なので注意してください)。

 原音素というのは、日本語の「ん」のような、条件次第で色々と発音が変化する音素を記述するためのものです。この「条件次第で」というのが重要で、自由異音が多いというだけなら通常原音素の形では表記されません。

 日本語の/N/の場合、直後に子音があるならばその子音と同じ位置の鼻音となり(/t/なら[n]、/p/なら[m]といった具合です)、直後に母音があるならば鼻母音として実現します。また、語末なら[ɴ]あたりの鼻子音になりますね(語末の発音が[ɴ]だから/N/と書くわけではありません、念のため)。これらの数々の異音は、「鼻音である」というただ一つの特徴で結びついています。

 なので、日本語の/N/は「とりあえず鼻音である音素(=鼻音であるということだけ指定されていて、どのような鼻音になるかは周辺の音の特徴がわかって初めて決まる音素)」という性質を持っているということができます。原音素とは、このような、発音の特徴の一部だけが指定されていて、周りの音次第で色々実現が変化する音素のことです。

 別にこれを/N/以外のもの、例えば/ŋ/と定義して、直後の音次第で[m]になったり[n]になったりしてもいいじゃない、という考えもおそらく出てくると思います。これは実際に理屈の上では問題ありません。しかし、/ŋ/には「破裂音」で、かつ「軟口蓋音」であるなどの指定が元から入っています。従って、音韻論の理論的には、/ŋ/をeの間で[ẽ]に変化させたりするような変化を記述する際に、まず軟口蓋音であるという指定を外して、次に破裂音であるという指定を外して、という操作が余計に必要になるので冗長です。/N/の場合には、そもそも鼻音であるということ以外の指定が入っていないので、そういう指定を外す必要がありません。単純に周りの音から特徴を借りてくるという音韻法則だけを書けばいいので、記述が単純ですみます。こういう理由で具体的な音ではなく、原音素/N/を立てた方が良いということになります。所謂「オッカムの剃刀(=定義しなくても説明できるなら定義する分だけ冗長になるから定義するな)」というものです。

 

長くなってしまいましたが、必要最低限のことは書けたと思います。本当は人工言語創作への応用についても書く予定でしたが、別の記事に分けて書きます。読んでくれた人がいらっしゃったなら感謝します。お疲れ様でした。

 

補足

 

・音素の表記には必ずしも音声記号(IPA等)を使わなければならないわけではありません。例えば原音素は/N/のように大文字で書きます。

・必ずしも日本語の文字<あ>に対応する音素を/a/と表記する必然性があるわけではなく、例えば代わりに音素/ʌ/と記述しても問題ありません。ただ、音韻上の振る舞いが前舌母音扱いかどうかとか、そういう色々な点を考慮した上で決めます。詳しくは弁別素性を扱う時に書きます。

・他の地方には最小語効果の影響がある変種があるので、この記事では「蚊」や「木」などの例を挙げる時に関東の日本語に限定しておきました。