比較言語学とは?(1)入門編

 前回は国際音声記号を解説しようと申し上げたのですが、モチベーションの関係で先に比較言語学の基礎を少し書こうと思います。

 

 比較言語学(Comparative linguistics)とは、言語の通時的な変化を扱う言語学の分野です。歴史言語学(Historical linguistics)ともいいます。個人的には後者の方が良いと思うのですが、日本では比較言語学という用語が定着してしまっているので、一応比較言語学と言っておきます。

 ここでは、比較言語学の始まりであるインド・ヨーロッパ諸語を例に話を進めて見ましょう。昔々、イギリスにウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)という人がいました。この人はもともとペルシア語などを研究していた人なのですが、カルカッタに法律屋として赴任してからサンスクリット語を学びはじめます。勉強しているうちに、「どことなくギリシア語とかラテン語に似てるとこあるよなあ」と思いました。それで1786年にアジア学会の3周年記念の講演としてインド人についての話をする機会があり、その中で「サンスクリット語ギリシア語・ラテン語は似過ぎててどう考えても同じ起源があるとしか思えない」とポロッと喋ってしまいました。この20年ちょっと後にその同じ起源(祖語 (Proto-language)といいます)を再現してみたらどうなるかと考えた人がいて、それで始まったのが比較言語学です。

 

 ジョーンズが何に目をつけたのかは今となってはわかりませんが、ここではいわゆるbe動詞の三人称単数現在形「それは〜である」という形を例にとってみましょう。ギリシア語、ラテン語サンスクリット語で以下のようになります。なお、実際に文献に出ている形は斜字体で引用することになっています。

 ギリシア語: estí(n)

 ラテン語est

 サンスクリット語ásti

 なんだか似ていますね。ここで、これに共通起源Xがあると仮定しましょう(アクセントの位置はここでは考慮しないことにします)。おそらく真ん中の-st-は三言語全てで一致しているのでそのままXに含まれていると推定できますね。でもって最初の音は三つの全てで母音だからとりあえずV(Vowel「母音」の略)とおきましょう(ちなみに「子音」はC(Consonantの略)です)。eなのかaなのかはまだわかりません。語末の音についても、ギリシア語のようにiなのかそれともラテン語のように何もないのかまだわかりません(ギリシア語のnは母音連続の回避のために入る音なのでギリシア語内部が起源と考えておいていいでしょう)。それで、共通起源Xは仮定上の形なので、何かそのことを示す記号を置いた方がいいですね。これにはアスタリスク(*)を使います。そうすると、Xは暫定的にこんな感じで書けますね。

 *Vst(i)

 では語頭の音はeなのでしょうかaなのでしょうか。この問題を解決するためには、たくさんの語を見比べなければなりません。詳細はここでは省きますが、それで色々比較してみると、ギリシア語とラテン語でe, o, aである音が、基本的にサンスクリット語では全てaになっていることがわかります。aがe, o, aに分裂したと考えるよりはe, o, aがaに合流したと考える方が良いので(分裂だと分裂の条件を考えないといけないけれども、合流はその必要がないからです。もちろん分裂だと言うことを示す根拠がちゃんとあればこの限りではありません)、eとします。なので、*est(i)と再建できました。

 次に、語末のiの有無を考えます。語末では基本的に音がくっつく変化よりも落ちる変化の方が遥かによくあるので、素直にiがあると考えてしまいましょう。iがくっついた形の方が新しいと言う証拠が出てきたらこの考えはすぐに撤回しなければならないと言う点は覚えておかなければなりませんが、今のところはこれでいいことにしておきます(実際のところ100%祖語で-iがついていたと実証するのは難しいんじゃないかと思います。こう言うときに比較言語学の手法ではついている言語とついていない言語のどちらが多いかと言う多数決の原理を採用しますが、新しい論点が出てきたらひっくり返りうると言うのは覚えておいた方がいいですね。私は個人的にこれを歴史言語学の民主主義と呼んでいます)。これで*estiという再建形ができました。これはインド・ヨーロッパ祖語(Proto-Indo-European, PIE)の形なので、PIEと頭につけて明示して、

  PIE *esti

これで完成です。で、ここから逆算して考えると、インド・ヨーロッパ祖語の*eがサンスクリット語のaになるという変化が起こっていることがわかります。これを大なり記号>を用いてこう書きます。

 PIE *esti > Sanskrit ásti

  注意して欲しいのが、歴史的な音の変化には>の記号を使うことが決まっていて、→の記号は使わないということです。→は共時的な音韻規則を記述するときに使います。例えば日本語の/tu/が[tsu]と発音されるという音韻規則を記述する場合には、tu → tsuと書きます。もっと正確に生成音韻論の方式でかくと、t → ts / _ uとなりますが、これは音韻論を勉強するときに詳しくやりましょう。

 今回はかなーりはしょったのですが、このような比較を大規模にやって、ちゃんと音の対応関係(ギリシア語uとサンスクリット語uが対応するとか)と、具体的な音の変化(インド・ヨーロッパ祖語*uはサンスクリット語uになるとか)を体系的に、かつ例外なく記述できれば、それらの言語は系統関係にあると言っていいことになります。なお例外は必ず全てなんらかの形でなぜ例外になるのか説明する必要があります。この音はあるときにはこうなってあるときにはこうなる、というようなふわっとした説明は許されません。祖語の段階であった音が理由なく突然消えたりしてしまってはいけません。そうでもしないとただでさえ危うい橋を渡ってるものがただの妄想のレベルにまで落ちちゃいますからね。

 

 ところで、この分野の始まりがインド・ヨーロッパ諸語の共通の起源を再建しようという動機からだったため、その「共通の起源」を再建したりとか、あの言語がこの言語と共通の起源をもつとかそういう議論が比較言語学の至上命題だと考えられがちです。考えられがちなのですが、基本的には言語の体系が時間の流れとともにどう変化するのかという問題を解明するのが比較言語学の中心的テーマであると個人的には思っています。祖語が再建できたり、他の言語との系統関係が見えるようになるのはその結果に過ぎません。逆に言えば、単語を並べるだけ並べて、どういう変化が起こったのかということをしっかり解明せずに「この言語とこの言語は同じ語族である!」とか言ってはいけないわけです。

 

 要点をまとめると以下のようになります。

・比較言語学の手法の基本は体系的にこの音がこの音と対応するという関係を見つけることです。ただし、基本的に比較言語学において別々の言語の同じ意味の単語が表面上似ているというのは罠です。実は借用語だったりします。偶然の一致というのも結構な確率で起こることが指摘されています。確か全語彙の10%くらいまでは偶然同じ形になっていることがあり得るとか言われていた気がします。

・対応させるだけではなく、どういう変化の結果その対応ができたのかを記述することが大切です。

・再建した形はアスタリスク*をつけて書き、実際に文献に出てくる形は斜字体で引用します。

・歴史的な音変化は>、共時的な音韻法則は→で表します。

 

ちゃんと書けているかわかりませんが、今回は以上とします。次回は人工言語の祖語を作りたいときにどうするか?という話をしようと思います。ただ、平日はあまり時間が取れないので、場つなぎ的に自分が個人的に読んだ語学のテクストと解釈を少し貼ってもいいなと考えています。ここまで読んでくださった方がいらっしゃったら感謝します。お疲れ様でした。

 

補足

 

 以前に「原音素」という概念を紹介しましたね。母音Vや子音Cを大文字で書くのは原音素と同じ考え方で、母音or子音ということだけ指定しているからです(大文字表記の究極的な起源はひょっとしたら慣習かもしれませんが、こう解釈しておいた方がいいと思います)。他にも、例えば歯音ならTと置いたりできます。

 ここで使った再建の例ですが、現在では*estiではなく語頭に*h₁がついてPIE *h₁estiであったと考えられています。これは喉音理論という知識が必要となるので省略しました。この*h₁は19世紀の研究ではついていないのですが、間違いなく存在することが1920年代に証明されました。

 t → tsの環境は_uよりも_[+round, +high]と書いた方がいいのかしら。私は日本語学には疎いのでわかりません。素性で書くことに明確な利点がなければ素直に_uでいいとは思うのですが。

 通時的な変化には>を使うと書いたのですが、ある言語のこの形がこれに由来するとか書きたい場合は<を使って「ラテン語est < PIE *h₁esti」のように書くこともよくよく考えたらあり得ますね。逆に←はまず使いません。