比較言語学とは?(1)入門編

 前回は国際音声記号を解説しようと申し上げたのですが、モチベーションの関係で先に比較言語学の基礎を少し書こうと思います。

 

 比較言語学(Comparative linguistics)とは、言語の通時的な変化を扱う言語学の分野です。歴史言語学(Historical linguistics)ともいいます。個人的には後者の方が良いと思うのですが、日本では比較言語学という用語が定着してしまっているので、一応比較言語学と言っておきます。

 ここでは、比較言語学の始まりであるインド・ヨーロッパ諸語を例に話を進めて見ましょう。昔々、イギリスにウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)という人がいました。この人はもともとペルシア語などを研究していた人なのですが、カルカッタに法律屋として赴任してからサンスクリット語を学びはじめます。勉強しているうちに、「どことなくギリシア語とかラテン語に似てるとこあるよなあ」と思いました。それで1786年にアジア学会の3周年記念の講演としてインド人についての話をする機会があり、その中で「サンスクリット語ギリシア語・ラテン語は似過ぎててどう考えても同じ起源があるとしか思えない」とポロッと喋ってしまいました。この20年ちょっと後にその同じ起源(祖語 (Proto-language)といいます)を再現してみたらどうなるかと考えた人がいて、それで始まったのが比較言語学です。

 

 ジョーンズが何に目をつけたのかは今となってはわかりませんが、ここではいわゆるbe動詞の三人称単数現在形「それは〜である」という形を例にとってみましょう。ギリシア語、ラテン語サンスクリット語で以下のようになります。なお、実際に文献に出ている形は斜字体で引用することになっています。

 ギリシア語: estí(n)

 ラテン語est

 サンスクリット語ásti

 なんだか似ていますね。ここで、これに共通起源Xがあると仮定しましょう(アクセントの位置はここでは考慮しないことにします)。おそらく真ん中の-st-は三言語全てで一致しているのでそのままXに含まれていると推定できますね。でもって最初の音は三つの全てで母音だからとりあえずV(Vowel「母音」の略)とおきましょう(ちなみに「子音」はC(Consonantの略)です)。eなのかaなのかはまだわかりません。語末の音についても、ギリシア語のようにiなのかそれともラテン語のように何もないのかまだわかりません(ギリシア語のnは母音連続の回避のために入る音なのでギリシア語内部が起源と考えておいていいでしょう)。それで、共通起源Xは仮定上の形なので、何かそのことを示す記号を置いた方がいいですね。これにはアスタリスク(*)を使います。そうすると、Xは暫定的にこんな感じで書けますね。

 *Vst(i)

 では語頭の音はeなのでしょうかaなのでしょうか。この問題を解決するためには、たくさんの語を見比べなければなりません。詳細はここでは省きますが、それで色々比較してみると、ギリシア語とラテン語でe, o, aである音が、基本的にサンスクリット語では全てaになっていることがわかります。aがe, o, aに分裂したと考えるよりはe, o, aがaに合流したと考える方が良いので(分裂だと分裂の条件を考えないといけないけれども、合流はその必要がないからです。もちろん分裂だと言うことを示す根拠がちゃんとあればこの限りではありません)、eとします。なので、*est(i)と再建できました。

 次に、語末のiの有無を考えます。語末では基本的に音がくっつく変化よりも落ちる変化の方が遥かによくあるので、素直にiがあると考えてしまいましょう。iがくっついた形の方が新しいと言う証拠が出てきたらこの考えはすぐに撤回しなければならないと言う点は覚えておかなければなりませんが、今のところはこれでいいことにしておきます(実際のところ100%祖語で-iがついていたと実証するのは難しいんじゃないかと思います。こう言うときに比較言語学の手法ではついている言語とついていない言語のどちらが多いかと言う多数決の原理を採用しますが、新しい論点が出てきたらひっくり返りうると言うのは覚えておいた方がいいですね。私は個人的にこれを歴史言語学の民主主義と呼んでいます)。これで*estiという再建形ができました。これはインド・ヨーロッパ祖語(Proto-Indo-European, PIE)の形なので、PIEと頭につけて明示して、

  PIE *esti

これで完成です。で、ここから逆算して考えると、インド・ヨーロッパ祖語の*eがサンスクリット語のaになるという変化が起こっていることがわかります。これを大なり記号>を用いてこう書きます。

 PIE *esti > Sanskrit ásti

  注意して欲しいのが、歴史的な音の変化には>の記号を使うことが決まっていて、→の記号は使わないということです。→は共時的な音韻規則を記述するときに使います。例えば日本語の/tu/が[tsu]と発音されるという音韻規則を記述する場合には、tu → tsuと書きます。もっと正確に生成音韻論の方式でかくと、t → ts / _ uとなりますが、これは音韻論を勉強するときに詳しくやりましょう。

 今回はかなーりはしょったのですが、このような比較を大規模にやって、ちゃんと音の対応関係(ギリシア語uとサンスクリット語uが対応するとか)と、具体的な音の変化(インド・ヨーロッパ祖語*uはサンスクリット語uになるとか)を体系的に、かつ例外なく記述できれば、それらの言語は系統関係にあると言っていいことになります。なお例外は必ず全てなんらかの形でなぜ例外になるのか説明する必要があります。この音はあるときにはこうなってあるときにはこうなる、というようなふわっとした説明は許されません。祖語の段階であった音が理由なく突然消えたりしてしまってはいけません。そうでもしないとただでさえ危うい橋を渡ってるものがただの妄想のレベルにまで落ちちゃいますからね。

 

 ところで、この分野の始まりがインド・ヨーロッパ諸語の共通の起源を再建しようという動機からだったため、その「共通の起源」を再建したりとか、あの言語がこの言語と共通の起源をもつとかそういう議論が比較言語学の至上命題だと考えられがちです。考えられがちなのですが、基本的には言語の体系が時間の流れとともにどう変化するのかという問題を解明するのが比較言語学の中心的テーマであると個人的には思っています。祖語が再建できたり、他の言語との系統関係が見えるようになるのはその結果に過ぎません。逆に言えば、単語を並べるだけ並べて、どういう変化が起こったのかということをしっかり解明せずに「この言語とこの言語は同じ語族である!」とか言ってはいけないわけです。

 

 要点をまとめると以下のようになります。

・比較言語学の手法の基本は体系的にこの音がこの音と対応するという関係を見つけることです。ただし、基本的に比較言語学において別々の言語の同じ意味の単語が表面上似ているというのは罠です。実は借用語だったりします。偶然の一致というのも結構な確率で起こることが指摘されています。確か全語彙の10%くらいまでは偶然同じ形になっていることがあり得るとか言われていた気がします。

・対応させるだけではなく、どういう変化の結果その対応ができたのかを記述することが大切です。

・再建した形はアスタリスク*をつけて書き、実際に文献に出てくる形は斜字体で引用します。

・歴史的な音変化は>、共時的な音韻法則は→で表します。

 

ちゃんと書けているかわかりませんが、今回は以上とします。次回は人工言語の祖語を作りたいときにどうするか?という話をしようと思います。ただ、平日はあまり時間が取れないので、場つなぎ的に自分が個人的に読んだ語学のテクストと解釈を少し貼ってもいいなと考えています。ここまで読んでくださった方がいらっしゃったら感謝します。お疲れ様でした。

 

補足

 

 以前に「原音素」という概念を紹介しましたね。母音Vや子音Cを大文字で書くのは原音素と同じ考え方で、母音or子音ということだけ指定しているからです(大文字表記の究極的な起源はひょっとしたら慣習かもしれませんが、こう解釈しておいた方がいいと思います)。他にも、例えば歯音ならTと置いたりできます。

 ここで使った再建の例ですが、現在では*estiではなく語頭に*h₁がついてPIE *h₁estiであったと考えられています。これは喉音理論という知識が必要となるので省略しました。この*h₁は19世紀の研究ではついていないのですが、間違いなく存在することが1920年代に証明されました。

 t → tsの環境は_uよりも_[+round, +high]と書いた方がいいのかしら。私は日本語学には疎いのでわかりません。素性で書くことに明確な利点がなければ素直に_uでいいとは思うのですが。

 通時的な変化には>を使うと書いたのですが、ある言語のこの形がこれに由来するとか書きたい場合は<を使って「ラテン語est < PIE *h₁esti」のように書くこともよくよく考えたらあり得ますね。逆に←はまず使いません。

音素(Phoneme)とは?(2)応用編

今回は、前回の続きをやりつつ、音素の概念をどう人工言語創作に応用するか?と言う話をします。

 

前回は音素という概念を導入しましたね。どの言語にも音声があるなら音素はあるわけですが、ある言語における音素の一覧を、音素目録(Inventory)と言います。インベントリと横文字で表記することもよくあります。例えばハワイ語の場合、音素目録は以下のようになるそうです。

 

母音音素 /a/, /e/, /i/, /o/, /u/ 

子音音素 /h/, /k/, /l/, /m/, /n/, /p/, /w/, /ʔ/

 

言語学の研究の場合、国際音声記号(International Phonetic Alphabet, IPA)の一覧表のように、調音位置と調音方法にあわせて並べた表にすることが多いと思います(調音位置とかは音声学を解説する機会があればそちらで書きます。例えば唇を使う[p]なら両唇音という具合です)。例えば英語の子音の音素目録は以下のように書きます。元ネタはEdwards (1992)という本ですが、画像は別のウェブサイトから引用しています(https://www.asha.org/uploadedFiles/practice/multicultural/EnglishPhonemicInventory.pdf)[2020/05/17閲覧]

 

 

https://www.asha.org/uploadedFiles/practice/multicultural/EnglishPhonemicInventory.pdf

 人工言語を創作する場合、まずはこの音素目録を作るところから始めることが多いんじゃないかなと思います。では、どのように作れば良いでしょうか。大きく分けて二つ方針があると思います。

 

(1)自然言語と同じような体系を作りたい。

(2)自然言語にないような体系を作りたい。

 

 (1)の方針で作るにしても(2)の方針で作るにしても、まずは「自然言語ではどのような音素目録がありえて、どのような音素目録がありえないのか」を知る必要があります。このような、「世界中の自然言語にはどのような体系がありえて、どのような体系がありえないのか」とか、「世界中の自然言語にはどのような共通性(あるいは相違点)があるか?」という問題を研究する言語学の分野を言語類型論(Linguistic typology)と言います。

 (系統関係によらない)言語の分類というと、真っ先に思い浮かぶのは屈折語(Fusional language)、膠着語(Agglutinative language)、孤立語(Isolating language)という分類ですよね。日本語は膠着語だとか。これも確かに言語類型の一種なのですが、こういう「分類する」タイプの類型論は19世紀のものです。20世紀の言語類型論は「全ての自然言語に共通するもの、普遍性を探す」という方向に行きます。でも普遍性というものもあんまり「必ずこうなる」みたいなのは見つからないので、最近ではまた「多様性を記述する」方向に舵を切り直したという感じの印象を受けます(個人の勝手な印象です)。

 人工言語創作に役立つのはこの「20世紀の言語類型論」の知識です。「必ずこうなる」というタイプの絶対的普遍性(Absolute universal)はあまりないのですが(あったとしても「鼻母音が存在するのに鼻母音ではない母音が存在ない言語はない」みたいな「そんなん全然驚きじゃないわ!」と言いたくなるようなのだったりして)、「全ての自然言語とは言えないけどほとんどの言語ではこうなる」という傾向や、「こういう特徴があるならこういう特徴を併せ持つことが多い」という含意的普遍性(Implicational universal)は割とあって、特に傾向と含意的普遍性をいくつか知っておくと限りなく自然言語に近い人工言語を作ることができます。これは音韻論に限らないので応用編を書くたびごとにできるかぎり紹介しようと思います。では、いくつか有名な例を見ていきましょう。

 

(a)絶対的普遍性(と言われる)例あるいは絶対的に近い普遍性

・どの言語も/a/, /i/, /u/の三母音あるいはこれに近いものをもつ(ほんとかなあ?)

・四母音体系なら/a/, /i/, /u/, /e/または/a/, /i/, /u/, /ɨ/である(ほんとかなあ?)

・五母音以上の体系なら/o/か/ɔ/がある(それっぽい)

・鼻音がない言語はほぼ存在しない。

 

(b)通言語的な傾向や含意的普遍性の例

・たいていの言語には/p/, /t/, /k/がある

 自然言語っぽい人工言語創作の基本は無声破裂音を加えることだと言えるでしょう。自然言語っぽく作るなら、無声破裂音だけにするとか、/b/のような有声破裂音を加えていくとか、/kʰ/のような無声有気破裂音を加えていくとかの選択肢があります。両方加える手ももちろん考えられます。音素として加えずに/p/の条件異音として[b]を出すとかいうやり方もできます。

・母音のインベントリは対称的になりやすい

 IPAの母音の表を念頭に置くとわかりやすいです。あの母音の表のどこかに音素が集中して配置されるということは稀だということです。表で考えると、大体それぞれの音素の距離が均等になるような配置になっていることが多いです。/a/, /i/, /u/, /e/, /o/の五母音体系とかすごく綺麗に散らばりますよね。この体系を持つ言語が多いのはこの配置の綺麗なところに由来します。同着で/a/, /i/, /u/の三母音体系や、/a/, /i/, /u/, /e/, /ɛ/, /o/, /ɔ/の七母音体系なども考えられますね。

・摩擦音が一つしかない場合、その摩擦音は/s/であることがほとんど

 反例はハワイ語で、上で書いたように/h/だけですね。例えば摩擦音が/ʕ/しかない体系にしたりすると、自然言語的でない感じが出ます。

・前舌母音は通常非円唇化母音で、後舌母音は通常円唇化母音である。

 要するに、/y/, /ø/よりも/i/, /e/の方がよくある母音で、/ɯ/, /ɤ/よりも/u/, /o/の方がよくある母音だというような話です。ただ、結構身近に例外はあって、日本語の/u/はむしろ/ɯ/に近い感じがしますし、中国語(普通話)は単母音としての/e/がないのに/ɤ/がありますね。

・破裂音の場合、無声破裂音の方が有声破裂音よりも存在する可能性が高い。

 /p/, /t/, /k/がないのに/b/, /d/, /g/がある体系とか、無声が/p/しかないのに/b/, /d/, /g/が全部ある体系は自然言語っぽくない体系だということです。逆に鼻音や流音の場合は有声が基本です。無声鼻音があるのに有声鼻音がないという体系は自然言語には存在しないはずです。

・無声の破裂音の中で最もある確率が高いのは/p/ 

 これも絶対ではなく、例えばアラビア語には/p/がありません。外国語の/p/を借用する時には普通/b/になるはずです。ヤーバーニー。

・有声の破裂音の中で最もない確率が高いのは/g/

 例えばウクライナ語やチェコ語などには(外来語を除けば)/g/がありません。Pragueはチェコ語だとPrahaですよね。人工言語の場合、/b/, /d/がないのに/g/だけあるような体系を作ると自然言語っぽさが薄れます。逆に/b/, /d/, /g/が揃っている体系とか、/b/, /d/があって/g/がない体系は自然言語っぽいです。

・放出音の中で最もある確率が高いのは/k'/

 逆に一番ない確率が高いのは/p'/だと言われています。

・入破音の中で最もある確率が高いのは/ɓ/

 放出音とは逆ですね。

 

このくらい見ておけばもう十分だと思います。では人工言語創作に応用した例を見てみましょう。

 

まず自然言語っぽいやつで。私の言語はこういう感じの音素目録を持っています。

 

母音 /a/, /i/, /u/, /e/, /o/

子音 /p/, /t/, /k/, /ʔ/

   /b/, /d/, /g/

   /f/, /s/, /š/, /h/

   /v/, /z/, /ž/

   /r/, /l/, /m/, /n/, /y/, /w/

 

 あまりにも普通すぎて涙が出てきますね。ただ、自然言語として見るとやや珍しめの点を一つあって、/v/と/w/が同時に存在します。一応英語に両方あるからちょっとピンとこないかもしれませんが、探して見ると案外例が少なかったりします。

 このうちの/š/と/ž/は音素表記にIPA(所謂発音記号)を使わなくてもいいということの一例です。実は作り始めた当初はもっとアラビア語みたいに口蓋垂とか咽頭とかの摩擦音や鼻音をてんこ盛りにしていたのですが、あまりにも発音しづらくてやめました。与格の接辞が-ɴuɸとか。

 

逆に全然自然言語に見えない例を考えてみます。ここでは試しに「舌がない宇宙人の言語」を作ってみましょう。声帯と口蓋帆(鼻に空気がいかないように塞ぐ器官です)と歯と両唇だけで出せる音を見繕って、/p/みたいな音素を外して、など色々遊びながら作ってみると、

 

子音 /ʔ/, /h/, /ɦ/, /f/, /v/, /ɸ/, /β/, /m/, /ɱ/, /m̥/, /ɱ̥/, /ʋ/,

母音 /ə̃/, /ɵ̞̃/

 

 こんな感じになりました。違和感すごい。これを適当に組み合わせて、

ɱvə̃f ɵ̞̃mɵ̞̃ʔ hə̃ʋ!「私は宇宙人だ!」とか、どうでしょう。少なくとも人間の言語には聞こえないものができました。

 

 ちなみに、先ほどの普遍性と照らし合わせてみると、/p/, /t/, /k/がない、/s/がないのに/f/, /v/, /h/みたいな摩擦音がいくつもある、鼻母音でない母音がない、/a/も/i/も/u/もない…など、普遍性の逆を行っていることがわかります。自然言語に近づけるにしても自然言語に見えないようにするにしても、まずは自然言語がどういうものなのかを知っておくと便利だということがお分かりいただけたでしょうか。

 

 今回は以上とします。次回は「国際音声記号って何?」という話(調音音声学の基礎の導入)をしようと思います。本来はこっちを先にするべきでしたね。もし読んでくださった方がいたら感謝します。お疲れ様でした。

 

補足

 

「この音素があるならこの音素もある」系の含意的普遍性はパッと見た感じこの論文が結構詳しく書いています。極限まで突き詰めるならこういうのを参考にするといいと思います。最近はオープンサイエンス化が進んでいるので論文名と雑誌名をGoogleで調べれば何かしらの形で読めることがほとんどです。Google Scholarで調べると直接pdfに飛べるので便利。

Pericliev, Vladimir (2008) Implicational phonological universals. Folia Linguistica 42(1):195-225.

 

音素(Phoneme)とは?(1)入門編

最初に音素(Phoneme)についての導入をしておこうと思います。

 

 音素というのは厳密な定義が難しい概念ですが、ここでは「言語の音のうち、意味の区別に使うことができる最小の単位」とでも定義しておきます。厳密な議論は専門家がやればいいということにしておきましょう。

 音素は/a/のようにスラッシュで囲みます。/a/なら音素としてのaという音を表します。逆に発音は[a]と大括弧で、文字は<a>とブラケットで書きます。

 

 例えば、日本語の/a/の場合を考えてみましょう。

 日本語には[ka]と発音する単語がありますね?あのうるさいアイツです。(関東の日本語を念頭においています)この単語に含まれる[a]の音を、[i]に変えてみるとどうでしょう。[ki]となりますね。[ki]と発音する単語は(少なくとも関東の)日本語に存在していて、[ka]とは違う意味です。

 つまり、[a]を[i]に変えることで意味が変わります。こういう操作で意味が変わってしまう音を互いに別の音素であると判定できます。/a/と/i/は別の音素であるということになりますね。同様の操作で/u/、/e/、/o/や/k/、/s/などが音素と認定できます。また、例に出したkaやkiのような、一つの音を変えることで意味が変わってしまいうる語のペアのことを最小対語(Minimal pair)と言います。ちなみに、[ka]や[ki]がそれ自体でそのまま音素にならないのは何故か、という疑問が出るかもしれませんが、ここで「最小の単位」と定義したことが効いてきます。[ka]は/k/と/a/に分割できるので音素と認定できません。

 

 逆に、最小対語になってくれない音同士のペアもあります。

 今度は[ka]の[a]を[ʌ]に変えてみましょう。[kʌ]と[ka]は何か別の単語になっているでしょうか。少なくとも私の知っている日本語の変種では両者は同じ語に聞こえます。[kɐ]と発音した場合も同様です(私の発音はこの[kɐ]に近い感じがします)。それぞれの発音記号が具体的にどんな音なのかは機会があれば解説します。この[a]、[ʌ]、[ɐ]の三者は(少なくとも関東の)日本語の範囲では意味の違いに関わらないため、同一音素/a/に属する異音(Allophone)と言います。

 さらに、異音にも二種類あって、ここであげた/a/の異音は自由異音(Free allophoneまたはFree-variant allophone)と言い、周りの音次第で発音が確定し、基本的に自由に変更されない(無理やりやれば変更できますけど自然な発話では基本的に発音が一定になる)ものを条件異音(Positional allophone)と言います。例えば日本語の音素/s/は、基本的には[s]と実現しますが、/i/の直前では[ɕ]と実現します。この[s]と[ɕ]は音素/s/の条件異音であると言えます。日本語には既に/ɕ/という音素(「医者」/iɕa/とか)がありますが、それは問題ではなく、この[ɕ]の背後に/s/という音素があることと、/si/という音素の連続から[si]という発音が出てこないという点が重要です。/s/から[ɕ]が出てくることは、例えば「する」の連用形が「し」になることなどからわかります。

 また、この条件異音をなす子音は、出現する範囲がお互いに補い合っています。例えば日本語/s/の場合、/i/の直前では[ɕ]、それ以外の場合では[s]となります。従って、この[s]と[ɕ]の両者は、音素/s/が出現しうる範囲の全体をカバーできていて、さらに両者が出現する範囲に被りがないことがわかります(あくまで音素/s/から出てくる[s]と[ɕ]だけを対象とする場合の話です)。このような分布の仕方を相補分布(Complementary distribution)と言います。なお、条件異音の関係にあれば必ず相補分布しますが、相補分布するから異音であるとは言えません。これを許してしまうと英語の[h]と[ŋ]が同一音素になってしまいます(借用語を考慮しなければ、前者は語頭だけ、後者は語頭以外にしか現れませんね)。同一音素の異音として認定するためにはやっぱりある程度似た音である必要があるわけです(本当はもっと突っ込んだ議論が必要なんでしょうが)。

 

 次に、日本語の「ん」について考えてみましょう。

 例えば、「千年」[sennen]、「千回」[seŋkai]、「千倍」[sembai]という三つの語を考えてみます(千年の末尾に関しては実際には[ɴ]と発音する人が多いと思いますし、日本語の/e/が[e]でない発音、例えば[ɛ]になることもよくあると思いますが、ここでは捨象します)。この三つの単語の前半部分はどれも「千」ですね(この三つの「千」が同じものである、ということを保証する「形態素」の定義は、もし形態論を書く機会があったらやります)。しかし、よくよく注意して観察してみるとこの三つの「千」は全て違う発音であることがわかります。同じ「千」なのに、なぜそれぞれの「ん」は別の発音になってしまうのでしょうか。

 まず最初に、この「ん」が/m/や/n/の異音である可能性から検討してみます。例えば「千円」という単語で考えてみましょう。この単語は[seẽen]みたいな感じで発音されるので、「ん」は鼻母音[ẽ]として実現していますね(多少位置がずれる可能性はありますが、基本的に鼻母音なのは間違いないと思います、また音節核でないので本当はそのことを示す記号もいれるべきですが省略します)。一方、/senaka/という単語では(背+中なので、途中のnは音素/n/に属すことがわかります)、発音は[senaka]となって、鼻母音ではなく[n]として実現します。これからわかるのは、音素/n/は二つの母音(ここではeとa)に挟まれた場合でも鼻母音にはならないということです。つまり、直後に母音がある場合に鼻母音として実現する「千」の「ん」は音素/n/とは違った振る舞い方をします。このことから、「千」の「ん」は/n/とは別の音素であると考えなければならないということがわかります。同様にして/m/の異音でないこともわかります。

 

 以上のことから、日本語の「ん」は/n/でも/m/でもない第三の音素だということがわかります。しかし、この「ん」に対応する音素はどう記述すれば良いでしょうか。「ん」はどの位置でも鼻音として実現しますが、上で色々みてきたように、どのような鼻音になるかは次の音次第でかなり変わりますね。こういう音素を定義する際には、原音素(Archiphoneme)という概念を使います。この原音素は大文字で表されます。日本語の「ん」の場合は/N/となります(スモールキャピタルのɴとは別物なので注意してください)。

 原音素というのは、日本語の「ん」のような、条件次第で色々と発音が変化する音素を記述するためのものです。この「条件次第で」というのが重要で、自由異音が多いというだけなら通常原音素の形では表記されません。

 日本語の/N/の場合、直後に子音があるならばその子音と同じ位置の鼻音となり(/t/なら[n]、/p/なら[m]といった具合です)、直後に母音があるならば鼻母音として実現します。また、語末なら[ɴ]あたりの鼻子音になりますね(語末の発音が[ɴ]だから/N/と書くわけではありません、念のため)。これらの数々の異音は、「鼻音である」というただ一つの特徴で結びついています。

 なので、日本語の/N/は「とりあえず鼻音である音素(=鼻音であるということだけ指定されていて、どのような鼻音になるかは周辺の音の特徴がわかって初めて決まる音素)」という性質を持っているということができます。原音素とは、このような、発音の特徴の一部だけが指定されていて、周りの音次第で色々実現が変化する音素のことです。

 別にこれを/N/以外のもの、例えば/ŋ/と定義して、直後の音次第で[m]になったり[n]になったりしてもいいじゃない、という考えもおそらく出てくると思います。これは実際に理屈の上では問題ありません。しかし、/ŋ/には「破裂音」で、かつ「軟口蓋音」であるなどの指定が元から入っています。従って、音韻論の理論的には、/ŋ/をeの間で[ẽ]に変化させたりするような変化を記述する際に、まず軟口蓋音であるという指定を外して、次に破裂音であるという指定を外して、という操作が余計に必要になるので冗長です。/N/の場合には、そもそも鼻音であるということ以外の指定が入っていないので、そういう指定を外す必要がありません。単純に周りの音から特徴を借りてくるという音韻法則だけを書けばいいので、記述が単純ですみます。こういう理由で具体的な音ではなく、原音素/N/を立てた方が良いということになります。所謂「オッカムの剃刀(=定義しなくても説明できるなら定義する分だけ冗長になるから定義するな)」というものです。

 

長くなってしまいましたが、必要最低限のことは書けたと思います。本当は人工言語創作への応用についても書く予定でしたが、別の記事に分けて書きます。読んでくれた人がいらっしゃったなら感謝します。お疲れ様でした。

 

補足

 

・音素の表記には必ずしも音声記号(IPA等)を使わなければならないわけではありません。例えば原音素は/N/のように大文字で書きます。

・必ずしも日本語の文字<あ>に対応する音素を/a/と表記する必然性があるわけではなく、例えば代わりに音素/ʌ/と記述しても問題ありません。ただ、音韻上の振る舞いが前舌母音扱いかどうかとか、そういう色々な点を考慮した上で決めます。詳しくは弁別素性を扱う時に書きます。

・他の地方には最小語効果の影響がある変種があるので、この記事では「蚊」や「木」などの例を挙げる時に関東の日本語に限定しておきました。

ブログ始めました

@Zilf13です。

 

このブログでは、個人的な備忘録も兼ねて、比較言語学と音韻論の話をする予定です。

 

この@Zilf13というのは私の人工言語用のアカウントなのですが、意外と人工言語界隈でも自然言語に興味を持たれる方が多いため、私が知っている、あるいはこれから順次勉強したことを書き留めて公開しておこうと思います。

 

人工言語界隈は、先駆者(獄中)が認知言語学をそれなりに重視していたということもあって統語や意味論の記述はかなり凝ったものが多いように思えますが、見たところ音韻論の話というのは類型論の議論を除いてはあまりされていないように思えます。流石に最適性理論などを取り上げる予定はありませんが(人工言語制作にとりわけ役立つとも思えないし)、初期の生成音韻論くらいまでならわりと易しく、かつ人工言語制作に相当資するものがあると思います。学部の言語学入門みたいな講義の音韻論の範囲の復習にも役立てたらと思います(願望)。

 

さしあたって書く予定のもの

・弁別素性

・音韻規則の記述方法

・弱化(lenition)と強化(fortition)

・音節とは?(難問)

・聞え度(sonority)

・韻律音韻論(アクセント規則の作り方)

・比較言語学とは?

・言語類型論のさわり